2021-03-31 第204回国会 衆議院 国土交通委員会 第8号
というのは、かつて天竜川の治水について金原明善が、これは明治時代になりますからずっと古いんですけれども、それが中心になって植林事業を徹底的にやり、山を治めることによって治水事業を成功させていった。植林事業というのは、その地域地域のコミュニティーをつくることにも大きな意味があったんだろうというふうに思います。 この二点、学校教育の話と林業について、先生の御見解をいただければと思います。
というのは、かつて天竜川の治水について金原明善が、これは明治時代になりますからずっと古いんですけれども、それが中心になって植林事業を徹底的にやり、山を治めることによって治水事業を成功させていった。植林事業というのは、その地域地域のコミュニティーをつくることにも大きな意味があったんだろうというふうに思います。 この二点、学校教育の話と林業について、先生の御見解をいただければと思います。
武田信玄、津田永忠、金原明善という三人です。これはいずれも、日本の雨の降り方やあるいは地理の関係、そういうものと関係して治水政策をずっと進めたんですね。 武田信玄がすごいのは、信玄堤という話がよく出てくるんですけれども、信玄堤をつくったことがすばらしいのではなくて、その堤をずっと守れる仕組みをつくったことなんです。
子々孫々、洪水から村を守るため、金原明善は植林により治水を行いました。 六百ヘクタールに及ぶ荒れ地に三百万本もの木を植える壮大な計画。それでも、多くの人たちが明善の呼びかけに賛同し、植林のため、共に山に移り住みます。力ある者は山を耕し苗木を植える。木登りが得意な者は枝を切り落とす。女性や子供はツタや雑草を取り除く。それぞれが自身の持ち味を生かしました。
子々孫々、洪水から村を守るため、金原明善は植林により治水を行いました。 六百ヘクタールに及ぶ荒れ地に、三百万本もの木を植える壮大な計画。それでも、多くの人たちが明善の呼び掛けに賛同し、植林のため、共に山に移り住みます。 力ある者は山を耕し、苗木を植える。木登りが得意な者は枝を切り落とす。女性や子どもは蔦や雑草を取り除く。それぞれが自身の持ち味を活かしました。
○畝本政府参考人 保護司制度について、何を起源とするのかというのは難しいところではございますけれども、明治二十一年に、静岡県の実業家であった金原明善が、静岡監獄の副所長であった川村矯一郎とともに静岡県出獄人保護会社を設立して、釈放者の宿泊保護や就職あっせんを行うとともに、県下全域に千七百人の保護委員を配置して釈放者の支援などに当たらせたことが保護司制度の先駆けとされております。
御存じのこととは存じますが、我が国の更生保護は、明治以来、金原明善のような実業家や池上雪枝のような宗教家、さらには多くの矯正や保護のOBの方々の人道主義的あるいは宗教的情操に基づいた慈善事業として出発をいたしました。後に国の近代化に伴って刑事政策の一環、しかも社会復帰という最後の仕上げの仕事として組み込まれ、官民が力を合わせて維持、発展させてきたものであります。
一昨日、赤池委員の方からも御紹介いただきました、更生保護の父、金原明善。これは静岡県の浜松出身の方でございまして、天竜川の治水に私財をなげうった。そのほかに、勧善会、出獄人保護会社、こういうものを設立して、無頼を感化せしめ生活の道を助けた、こういうことで更生保護の父と言われておるわけでございます。
更生保護施設というのは、御案内のとおり、保護司そのものも、一昨日、金原明善翁の話もさせていただきましたが、明治十六年に大阪で池上雪枝さんという神道の教導者が民の力で、少年感化院でございますけれども、スタートしている。そういう面では、まさに保護司、そして更生保護施設というのがなぜ民間かという、その歴史、伝統が我が国にはあるわけでございます。
特に、保護司の先駆けというのも、明治二十一年、静岡県、上川先生も大口先生も静岡県ですが、金原明善さんという方が静岡県出獄人保護会社を設立して出獄人の世話を始めたということがきっかけだということを知りました。
文献によりますと、今御指摘のとおりでございますけれども、ある男が、二度と過ちをしないようにしようということを誓って刑務所を出たんだけれども、家族に受け入れられない、また親族にも受け入れられないということで、出所時の誓いを守ることができないと絶望いたしまして池に身を投じてみずから命を絶ったという話を聞いた、静岡県の治山治水事業を行っておりました実業家である金原明善という人が、改心をして刑務所を出所した
○政府参考人(麻生光洋君) これは多分歴史的なものではないかと思われるわけですけれども、先生も御存じと思いますが、明治二十一年に金原明善という人が、我が国最初の更生保護施設であります静岡県出獄人保護会社というものを設立いたしました。で、静岡県下に約千七百人の保護委員というものを委嘱したことがございます。
問題は、明治のときの、これは明治二十一年に静岡県から始まった制度でございまして、あのときには金原明善さんが出獄人保護会社というのをつくりまして、それに対応して同時に千七百人の保護司を任命したというのが日本の制度のいわば発祥なんでございますけれども、そういうことを思い浮かべながら、改めて、この刑事施設法が誕生するときには、それに合わせた同じような発想方法というか、それを今様にした制度をもう一遍つくりかえるぐらいの
そうした中で、例えば芥川賞作家で、芥川賞をとられた金原ひとみさん、みずから不登校であったことを表明しておられて、むしろ彼女なんかはすごく今の時代の新しいタイプのスターだなと私も感じております。
これは昭和十五年当時の参謀本部員井本熊男大佐の日誌、そしてまた陸軍省の金原節三医事課長の業務日誌、同後任の大塚文郎大佐の備忘録、また参謀本部の真田穣一郎少将の業務日誌といったものも確認をしているところでございます。 そこで、官房長官、定例の記者会見がございますようですから、最初にお伺いをさせていただきたいと思います。
○政府委員(冨金原俊二君) ただいま先生が御指摘になりました経済企画庁としてこれからの課題として三つの点を御指摘になったわけでございますが、これは実は先般私どもの大臣が宮澤総理のところにお伺いしまして、来年度に新しい経済計画を策定することについて具体的に総理から御指示をいただいた主要なポイントでございます。
○政府委員(冨金原俊二君) 実は、外国の制度と日本の制度につきまして、例えばアメリカの制度について必ずしも的確に細かいことを承知しているわけではございませんが、制度の違いというものは、やはり歴史的なものであるとかあるいは国土の広さであるとか、いろいろな問題から生じてきていると考えられますので、制度の違いだけで土地の値段が下がらないということは必ずしも言えないのではないかという感じが実はしているわけでございます
広中和歌子君 三木 忠雄君 市川 正一君 古川太三郎君 橋本孝一郎君 国務大臣 通商産業大臣 渡部 恒三君 政府委員 経済企画庁調整 谷 弘一君 局審議官 経済企画庁総合 冨金原俊二君
蕃君 防衛庁教育訓練 小池 清彦君 局長 防衛庁経理局長 宝珠山 昇君 防衛庁装備局長 関 收君 防衛施設庁施設 大原 重信君 部長 防衛施設庁建設 新井 弘文君 部長 経済企画庁調整 吉冨 勝君 局長 経済企画庁総合 富金原俊二君
部長 防衛施設庁労務 荻野 貴一君 部長 経済企画庁調整 吉冨 勝君 局長 経済企画庁調整 谷 弘一君 局審議官 経済企画庁国民 加藤 雅君 生活局長 経済企画庁物価 長瀬 要石君 局長 経済企画庁総合 冨金原俊二君
蕃君 防衛庁経理局長 宝珠山 昇君 防衛庁装備局長 関 收君 防衛施設庁総務 部長 竹下 昭君 防衛施設庁施設 部長 大原 重信君 経済企画庁物価 局長 長瀬 要石君 経済企画庁総合 計画局長 冨金原俊二君
事務局審査部長 経済企画政務次 田中 秀征君 官 経済企画庁長官 藤井 威君 官房長 経済企画庁調整 吉冨 勝君 局長 経済企画庁国民 加藤 雅君 生活局長 経済企画庁物価 長瀬 要石君 局長 経済企画庁総合 冨金原俊二君
○冨金原政府委員 時間もございませんようですので、簡単にお話をしたいと思いますが、先生御承知のとおり、経済企画庁は経済全体の総合調整をするという立場から経済計画の作成をいたしておりまして、現行の経済計画「世界とともに生きる日本」という計画の中でも、労働時間の短縮は国民生活の豊かさを実感する上で極めて重要な問題であるという認識のもとに、計画の中でできるだけ早く千八百時間の労働時間を実現するようにということをきちんとうたって
冨金原総合計画局長。
防衛庁経理局長 宝珠山 昇君 防衛施設庁総務 竹下 昭君 部長 防衛施設庁労務 荻野 貴一君 部長 経済企画庁調整 吉冨 勝君 局長 経済企画庁国民 加藤 雅君 生活局長 経済企画庁物価 長瀬 要石君 局長 経済企画庁総合 冨金原俊二君
○冨金原政府委員 先生御承知のとおり、現在の計画につきましては毎年フォローアップをすることになっておりまして、一番新しいフォローアップ報告は昨年の六月に行われている報告でございます。 現在の計画の大きな考え方と申しますのは、現在日本の経済社会が取り組むべき課題というのは三つほどある。一つは、対外不均衡の是正と世界に貢献していくことである。
臣 (経済企画庁長 官) 越智 通雄君 出席政府委員 経済企画庁調整 局長 末木凰太郎君 経済企画庁国民 生活局長 加藤 雅君 経済企画庁物価 局長 田中 努君 経済企画庁総合 計画局長 冨金原俊二君